この記事の要約
- WHOのパンデミック条約交渉で、AI創薬による知財扱いが最大の争点に。
- 耐性菌への特効薬を企業が独占するか、途上国へ開放するかで対立激化。
- バイオ技術と資本主義の衝突が、人類の安全保障を揺るがしている。
2026年1月、ジュネーブのWHO本部。ここで今、次なるパンデミックへの備えを決める重要な交渉が大詰めを迎えています。議論の中心にあるのは、ウイルスそのものではなく、それを撃退する「AI」が生み出した成果物の扱いです。
「AIが設計した薬は、発明品として特許で守るべきか、それとも人類共通の財産(公共財)として開放すべきか」――この問いが、製薬大国とグローバルサウス(新興・途上国)の間に深い溝を作っています。技術の進化が政治の速度を追い越した今、私たちは「命の値段」と「知の所有権」をどう定義し直すべきなのでしょうか。
ジュネーブで激突する「命の値段」

「パンデミック条約」って、コロナの後に話題になりましたよね。まだ揉めているんですか?
そうだね。今回の争点は「AI創薬」なんだ。AIがあっという間に見つけた「スーパー抗生物質」を誰が管理するかで、意見が真っ二つに割れているんだよ。
えっ、AIが薬を作るんですか? それなら安くみんなに配ればいいのに。
そこが難しいところさ。開発企業は「AIへの投資回収が必要だ」と主張し、途上国は「データは人類のものだ」と反発している。まさに資本主義と人道支援の正面衝突だね。
今回のニュースの核心は、以下の3点に集約されます。
- 交渉の長期化:WHOでのパンデミック条約交渉は、AI創薬技術の知財(IP)扱いを巡って膠着状態にある。
- AIによるブレイクスルー:人類の脅威であるAMR(薬剤耐性菌)に対し、AIが画期的な新薬候補を短期間で特定したことが議論の引き金となった。
- 南北問題の再燃:開発を主導する先進国(グローバルノース)と、安価なアクセスを求める途上国(グローバルサウス)の対立が、技術領域にまで拡大している。
議論を解きほぐす5つのキーワード

| 用語 | 解説 |
|---|---|
| パンデミック条約 | WHOで議論中の国際協定。 感染症への予防や対応を定める。 |
| AMR(薬剤耐性菌) | 薬が効かない菌のこと。 感染症の治療が困難になる。 |
| AI創薬 | AIで薬の候補を探す技術。 開発期間を劇的に短縮する。 |
| PABS | 病原体データと利益の配分。 条約交渉の核心的な仕組み。 |
| グローバルサウス | アジアやアフリカの新興国。 公平な医療アクセスを求める。 |
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「サイレント・パンデミック」とAIの急速な進化

そもそも、なぜ今「抗生物質」がそんなに重要なんですか? ウイルスじゃないのに。
いい質問だね。実はAMR(薬剤耐性菌)は「サイレント・パンデミック」と呼ばれていて、2050年にはがんより多くの人が亡くなると予測されているんだ。
そんなに怖いんですね…。でも、新しい薬を作ればいいだけの話じゃ?
それがね、従来の開発には10年以上の時間と数千億円のコストがかかっていたんだ。だから製薬会社も及び腰だったんだけど、AIがその常識を覆してしまったんだよ。
なるほど! AIならすぐに特効薬が見つかるから、ビジネスチャンスになったってことですね。
かつてないスピードで進化する創薬技術が、国際ルールの不備を浮き彫りにしています。
- 従来の問題点:抗生物質は開発コストが高い割に、耐性ができやすく売上が見込めないため、「市場の失敗」が起きていた分野でした。
- AIの衝撃:2020年代半ば、生成AIが数億種類の化合物から、耐性菌に効く構造をわずか数週間で特定。開発コストが劇的に下がる可能性が示されました。
- 条約のねじれ:パンデミック条約は当初、ワクチン配分を主眼に置いていましたが、AIによる創薬データや遺伝子配列情報(DSI)の扱いが新たな、そしてより複雑な争点として浮上しました。
発見したのはAI、利益を得るのは誰?

ここで考えてみてほしい。AIが発見した薬の「発明者」は誰だと思う?
うーん、AIを使った人…つまり製薬会社ですか? でも、AIが学習したデータは世界中から集めたものですよね。
鋭いね! 「元データを提供した国」にも権利があるんじゃないか、というのがグローバルサウスの主張なんだ。「私たちの病原体データで学習したAIが作った薬を、なぜ高値で買わなきゃいけないの?」ってね。
確かに…。でも企業側からすれば、AIの開発費や設備投資にお金がかかってるわけですし。
この問題の本質は、「情報の価値」をどう分配するかという点にあります。
- 企業の論理(インセンティブ):AIモデルの構築や計算資源(GPUクラスター等)には巨額の投資が必要。特許による独占期間がなければ、投資を回収できず、次のイノベーションが起こらないと主張します。
- 途上国の論理(アクセス権):病原体の遺伝子データなどは「公共財」であり、そこから派生したAI創薬の成果も、安価に共有されるべきだと主張。技術移転や特許放棄(IPウェイバー)を求めています。
- PABSの限界:従来の「病原体アクセスと利益配分(PABS)」システムは物理的な検体を想定しており、デジタルデータのみで完結するAI創薬には対応しきれていないのが現状です。
「イノベーション」対「公平性」の終わらない綱引き

どちらの言い分も分かります…。でも、命に関わることだから、やっぱり公平性が大事な気がします。
そうだね。ただ、視点を変えると別のリスクも見えてくる。もし企業が利益を出せなくなって撤退したら、誰も薬を作らなくなるかもしれないよ?
あ、そっか。結局、薬が生まれなければ意味がないですもんね。
逆に、一部の国や企業だけが強力な薬を独占すれば、それは「バイオセキュリティ」の脅威にもなり得る。薬を持たない国が攻撃に弱くなるからね。
この問題には、単純な二項対立では片付けられない多面的な視点が必要です。
- 製薬企業の視点:知的財産権はイノベーションの生命線。特許保護が弱まれば、リスクの高い感染症薬開発から撤退せざるを得ず、結果として人類全体の損失になるという懸念があります。
- グローバルサウスの視点:過去のパンデミックでの「ワクチン・アパルトヘイト(分配格差)」の二の舞を恐れています。AI技術の恩恵が一部の富裕層に留まることは、人道的に許されないという強い立場です。
- 安全保障の視点:AIが設計した新規化合物は、治療薬にもなれば、悪用すれば生物兵器にもなり得ます。技術を完全にオープンにすることには、テロリストへの流出リスクというセキュリティ上のジレンマも潜んでいます。
- 経済合理性の視点:抗生物質は使えば使うほど耐性菌が増えるため、「あまり使われないこと」が望ましい特殊な商品です。大量販売で利益を出す従来のビジネスモデル自体が、AI時代には不適合かもしれません。
2026年以降の世界はどう変わるか

交渉が決裂したら、どうなっちゃうんですか?
最悪の場合、次のパンデミックが来た時に「薬はあるけど買えない」という国が続出するだろうね。ウイルスや耐性菌は国境を越えるから、一部の国だけが助かっても世界は安全にならないんだ。
じゃあ、どうすればいいんでしょう? 特許か公共財か、どっちか選ぶしかないんですか?
「第三の道」を探る動きもあるよ。例えば、特許は認めるけれど、途上国向けには原価で提供する「ティアード・プライシング(段階的価格設定)」や、政府が開発報酬を先払いするモデルなどだね。
今後の展開として、以下のシナリオが考えられます。
- 条約の行方:完全な合意は難しくとも、緊急時の強制実施権(特許の一時停止)の発動条件を明確化するなどの妥協案が模索されるでしょう。
- 新しい創薬エコシステム:利益追求型の企業モデルに加え、公的資金や慈善団体が支援する非営利のAI創薬プラットフォームが台頭し、必須医薬品の開発を担う可能性があります。
- AIガバナンスの強化:AIによる生命科学研究に対し、国際的な監視と規制の枠組みが作られ、技術の独占と暴走の両方を防ぐ仕組みが必要になります。
まとめ

AI創薬は、人類が長年苦しめられてきた感染症との戦いに終止符を打つ「魔法の杖」になる可能性を秘めています。しかし、その魔法を誰が使い、誰に届けるかという「分配の政治」は、テクノロジーだけでは解決できません。
パンデミック条約の交渉は、単なる貿易ルールの策定ではなく、デジタル時代の「公共財」をどう定義するかという、21世紀の新たな社会契約を結ぶための試練と言えるでしょう。私たちは、技術の進化に見合った倫理的な成熟を求められています。